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令和元年霜月5日 今日もクルクル通信436号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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目的と手段を明確にすること。
これはビジネスにおいても、とても重要なことだとよく言われます。
いや、何もビジネスだけではないですね、どんなことでもです。
失敗の本質を読んでいると、
これが、いかに、重要なことなのか?
痛いほど、よく分かる。といいますか、考えさせられます。
人の命がかかった、戦ですから。
そもそもこの戦闘は何のためにあるのか?
そのために何をすべきなのか?
これを整理できずにいると、成果を上げることができないどころか、
戦闘には勝ったが、勝負には敗れた
なんてことが起こってしまいます。
例えば、
この土地を獲得することが、戦闘の本来の目的であったにもかかわらず、
戦闘をするにつれて、その土地を守っている敵軍をやっつけることが目的になってしまう。
そのことばかりに注力してしまって、本来の目的であった、土地を確保できなかった。
そんなことがあったとしたら、これは
手段の目的化です。
その作戦は、成果ゼロです。(命を失うという代償を払いますし…最悪です)
スポーツを例に考えてみます。例えばゴルフ。
ドライバーがスライスをしてしまうので、それを直すために
ダウンスイングの軌道をもう少し内側からに修正しよう
と練習を始めた。
とします。
最初の30球くらいは、
それを意識してゆっくり、「内側から内側から」と言い続けながら、一球一球丁寧に練習。
もちろん、最初は全然良い球が出ない。
でも、ある時から徐々に、良い球が出始める。快音が聞こえる始めると
快音が気持ちよくなってしまって、その音ばかりを追ってしまう。
その音を出すことばかりに意識が行ってしまう。
終わってみたら、当初の目的を忘れて、いつも通りにドライバーを振ってしまっていた。
終わったころに、
あれ?もともとの目的って何だっけ?
なんて、呆然とする。
身をもって思いますが…これなんかもよくある話です笑
仕事においてもありそうです。
例えば、営業。
営業は本来、お客様に、成果を上げて頂くこと、価値を届けることのが、目的。それを達成いただくための手段として、商があるはずですが…
例えば、自分の営業成績のために、「本来は、これはお客様にとってベストではないかもしれない…」
と思いつつも、お願いも含めてセールスをしてしまう。
これもその一例と言えるかもしれません。
あるいは、プロジェクトをよりよくする施策を決める必要があるとしましょう。
本来であれば、プロジェクトメンバーで、個々の案を持ち寄って打ち合わせをするのが最も効率的で、その打ち合わせの時間が有意義になる。
にも関わらず、
とりあえず、みんなで打ち合わせしなきゃ。
みたいな感じで打ち合わせだけをセットする。
いざ打ち合わせをしてみたら、
各々勝手に意見を言うだけで、言いたいことを言いっぱなし。
「あー、それもあるよね。これもあるよね」
みたいな話で、とりあえず盛り上がるんですけれども、
40分くらいしたときに、
「あれ?そもそも、何の打ち合わせでしたっけ?」
「それで、どうするんでしたっけ?」
みたいな問いが生まれて、しばしの沈黙が生まれる。
結果的に、打ち合わせのオーナーが、とりあえず、
「今日のアイデアを整理して展開します。そのうえで、また打ち合わせしましょう」
なんて着地をするってこともよくありませんか?
この打ち合わせがそもそも、施策の案出しのための打ち合わせ
という目的でセットされていれば、この体の打ち合わせに意味もありますし、目的は達成されたと言えるでしょう。
でも、そうでなかったら、
打ち合わせのための打ち合わせになってしまって、その時間がほぼ無駄になってしまいます。
これも、手段の目的化の一種ですよね。
でも、人って、一生懸命になればなるほど、自分が見えなくなってしまうもの。
分かっていても、手段と目的を取り違えてしまうことがあります。
そんな時は、
そもそも
って唱えるのが良いのかもしれません。
そもそも、これは何のためにやっているのか?
そもそも、何が出来れば、お客様に喜んでもらえるのか?
そもそも、何をすれば、みんなハッピーになるのか?
そもそも。そもそも。
もちろん、メンターがいて、定期的に、客観的に意見をもらえる状態を作り上げておければ、それがベストです。
でも、そうもいかない時は、意思をもって、
そもそも
って、自分に問いかけることが良いのかもしれません。
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【今日のうねり】
目的と手段を明確に分けておかなければならない。
手段の目的化が良く起こるからだ。
でも、一生懸命になればなるほど、自分が見えなくなってしまうもの。
もちろん、メンターを持つことが出来れば、理想的で、定期的に自ら客観視することができる。
そうではないならば、「そもそも」と、ことあるごとに、自らに問いかけると良いのだ。