話す⇔書くの往還運動で、クリアでピュアな思考に

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令和元年師走26日  今日もクルクル通信486号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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模倣の経営学を読了。

過去、このブログでも、模倣の経営学について書いてきましたが、実は書籍を読むのは今回が初めてでした。

その分、著者の井上先生の2つ講義音源を繰り返し聞いてきましたが笑

書籍の目次には何度か目を通したことがありましたが、そのたびに、「大筋被っているだろう」ということで、読まずに、聞くことに専念してきました。

ただ、最近は、復習にも力を入れていたので、今回書籍を購入しました。

実際、書籍内容は、音源と被っている部分も多かったです。

しかし、耳で聞くことと、目で読むという行為は、定着の仕方が大幅に違うことを実感しました。

確かに何度も聞き知っている内容を、書籍で読んでいるわけですから、「あー、これね。あったわ」って確認作業になる部分は多いですが、中には、

「あー、これってこういうことか!」

と、理解が曖昧だったものが明確化される。ストンと腑に落ちる。

脳内の配線が、カチっとつながって、電流が流れる。

そんな感覚が何度かありました。

そもそも、聞く学習と読む学習とでは、効果効能や役割(使い方)も全く異なるものではありますが、それを実感する機会にもなりました。

もうちょっと言うと、

聞いたことは、仮に曖昧なことがあったとしても、スルー出来るが、文章として読む場合は、その曖昧さが許されない

のかもしれません。

これは、同じ相手にメッセージを伝えるという行為であっても、話すことと書くことが似て非なるもの

ということと近しいのかもしれません。

ブログを書き続けて分かって来たのですが、話すことと書くことが要求する、本人の理解度がまるで違うのです。

断絶があるといっても良いくらいに。

ここで書いていることの中には、書く前に人にお話をさせて頂いているものが少なからずあります。

お話をさせて頂いたときに、聞いてくださった方が、

「あー、それはあるかもしれませんね!」とか「そんなに見方もあるんですね!」

といった感じで、何かしらの発見があるものと確認した上で、実際に書き起こしています。

が、しかし、

話した時はあんなに、「これはいい気づきだな!」なんて思ったことでも、いざ、文章にしてみると、

「あれ、これとあのことって、整合性取れてるんだっけ?」

「よく考えてみたら、繋がっていないよね?わけわからないよね?」

そんなことがしばしばあるんです。

こういった場合は、吹き込んでる段階から、「うーん」と考え込む時間が長くなり、その吹込みをPCで整えている時も、いつもより時間がかかることになります。

この考え込んでいる時間は「何の時間なのか?」と言えば、曖昧さをなくし、整合性を取るための時間。より思索を深める時間なんですよね。

話しているときは、それでOKになっているんです。でも、曖昧さがあると、文章にすることはできないんですよね。

だからこそ、書くことに意味があるわけです。

話したことを書くからこそ、その理解度が、1回り2回り3回りも深くなる。

そう思うのです。

書くことによって、完成する

と言っても良いのかもしれません。

逆に言えば、書いたことは話せるということになります。話せるからと言って、書くことが出来るとは限らないということです。

書くことのが話すことよりも、より深い思索を要求する行為なのでしょう。

 

この模倣の経営学の中に、ブランケティングという言葉がありました。

ちなみに、これは音源では語られていないはずです笑

これは社会学で使われる手法で、「カッコでくくる」という意味です。

社会学においては、いかに思い込みを除去して、観察できるのか?が大切になるそうです。

その除去手法が、ブランケティングで、具体的には、ある事象を観察した時に、自分が当たり前と思っていることに直面したら、それをカッコに入れてメモをとる。

その場で判断をせずに、ひとまずカッコでくくって判断を保留するそうです。

毎日書いているこのブログも、その多くが自分が「?」と思ったことを起点にしています。

その「?」というのは、そもそも自分の当たり前と直面した事象にギャップがあった時に発生するものですから、

書き続けると自ずから、思い込みや先入観に気づきやすくなっているはずなのです。

ちゃんとブランケティングが出来ていればですが…

もし、クリアでピュアな思考を身に着けたいと願うなら、

話す⇒書く。書く⇒話す。

書く⇔話すの往還運動は最良の方法の一つと言ってよいのかもしれません。
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【今日のうねり】
同じ、伝えるという行為でも、話すことと書くことは全く別物だ。
話すことは曖昧さが許されても、書くことは許されない。
書くことの方が話すことよりもより深い思索が求められる行為と言えよう。
同じように、耳に入ってくることは、スルーがあっても文章として目に入ってくることはそれがされない。
社会学で使われる、ブランケティングは思い込みを除去する方法だ。
実は、日々気づきをブログに書き発信するということは、それをしていることになる。
ブログは、ピュアでクリアな思考を身に着けるトレーニングとして最良の方法なのかしれない。