サッカーで振り返る、私の生存戦略

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令和2年睦月6日  今日もクルクル通信497号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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1月4日に高校サッカー部の先輩方とお会いしたので、ふと自分の高校サッカー時代について思い返しました。

3年生が1年生の9月に引退し、新チームがスタートしてから、右サイドバックのレギュラーを獲得したので、およそ2年間、そこでプレーし続けました。

完全なる後付けになりますが、

自分なりに自分の特性を理解し、戦略を立て、そのポジションを獲得した

って思います。

今日はそんな話です。

ちょっと遡りますが、サッカーをやるようになったきっかけは、小学校4年生の時に、父の仕事の都合でマレーシアに行ったことです。そこの日本人学校でサッカーが流行っていたから。ただ、それだけです。

別にそれまで、サッカーに大して関心もありませんでした。

その一年前、小学校3年生の七夕会で、「野球選手になりたい」なんて作文を読んだ記憶もあります笑

そもそもリトルリーグにも入っていた訳でもないですから。本気度なんて一ミリもない、全くいい加減なものです。いったいどうなっているんだか笑

マレーシアで住んでいたところは、タワー型と低層型(リンクハウス)が広大な敷地にある、大型マンションでした。

プール、テニスコート、トレーニングジム。アスレチックのある芝生スペース。軽食用のレストラン、ミニスーパーも敷地内にありました。

この芝生スペースで毎日のようにサッカーの練習をしました。って言っても、基本1人で練習するしかなかったので、リフティングの練習ばかりしていました。

確か始めた頃は、5回しかできなかったのですが、「1年後に100回」という目標を立てて、達成できたような記憶があります。

1年後にはシンガポールに移住、そこでもサッカーをしました。

シンガポールのマンションの前に、元シンガポールのテニスチャンピオンの自宅があって、そこでテニスも習っていました。なんだかその先生に見込まれたようで、

「マサユキを週5日教えさせてくれないか?シンガポールのジュニアチャンピオンにするから」

そんな申し出が先生から母親にあったそうですが、

「サッカーの方が楽しいから。いいです」

とあっさり断ったことを覚えています。「これに乗っかっていたらどうなっていたんだろうか?」ってちょっとは思います笑

 

6年生の時に日本に帰国。マレーシア、シンガポールでは「かなり上手い部類」に入っていましたので、「俺、イケてるんじゃね!?」みたいな気持ちがありました。

しかし、入会した、中台サッカークラブの双子の碇谷兄弟。正人&直人を見た時に、そんな気持ちは吹っ飛びました。

特に、雨の泥だらけのグラウンドでやった試合で、正人が見せた、トゥキック(つま先)で放った、高弾道のシュートを見た時から、

例えば、「サッカー選手になりたい」といったようなことは、一切思わないようになりました。

幼心にもそれほどの衝撃でした。

漫画の世界かよ!って思いましたから。レベルが違いすぎる。そう思ったことは今でもはっきり覚えています。

実際、この兄弟は、中学校で三菱養和サッカークラブに所属して、中3の時に全国制覇を果たしました。

彼らに促されるように、三菱養和や読売ヴェルディ、ジェフ市原、横浜Mなど、東京近郊のJリーグのチームのジュニアユースのセレクションを受けましたが、内心、「受かるわけない」って思っていて、実際、どこにも受かりませんでした。

中学校では、学校の部活でサッカーを続けました。

国立の受験校ですから、中台サッカークラブに比べたら圧倒的にレベルが低くて、入学と同時に、1ヶ月くらいでレギュラーになりました。

中台サッカークラブのコーチに、碇谷兄弟のお父さんがいたんですが、これが、めちゃめちゃ怖かったんです笑

通常の練習だけじゃなくて、彼らの自主練にも参加していて、そこでもお父さんに怒鳴られていましたからね。何度泣きそうになったからわかりません。だから、

「あんなに練習してる奴が中学校にいるわけない」って思っていましたし、元々のフォワードのポジションが空いていたので、今から思えば、レギュラーになるべくしてなったって思います。

中学1年生の時はフォワード。

2年生の時は、最前線から最後尾のスイーパーに。

3年生の時はキャプテンで、真ん中のミッドフィルダーを。

そのチームで大事なポジションを転々と任されていました。あのレベルであればどこでもできるくらいの基礎能力があったってことです。高いレベルで見たら、単なる器用貧乏だと思いますが。

ただ、徐々に、「どのポジションも自分にとってはベストじゃないな」って思うようになりました。

「ここじゃない」って。

そう思うことが出来たのも、そもそも碇谷兄弟基準(全国基準)でサッカーを考えることが出来ていたからなのかもしれません。

当時、

足の速さ◎

スタミナ〇

ボールを扱う基礎技術〇

テクニック×

身長(高さ)×

戦術理解度◎

こんな評価を自らに下していたと思います。

で、その時から薄々と思ってたのが、

自分にはきっとサイドバッグがベストだ

ってことです。

中学校のチームでは、状況上の他のポジションをやらざる得なかったですが、もうちょっとレベルの高いチームだったら、サイドバッグが一番活躍できる。サイドバックなら通用する。

そう思うようになっていました。

地区の代表では、サイドバッグを少し経験して、手ごたえを感じて、高校に突入しました。

 

それにしても、成蹊高校に入学した時の3年生のチームは強かったです。東京都ベスト16まで行きましたから。

中学校とはレベルが段違いに高い。

三年生のチームで未経験のサイドバックでレギュラーになるのは無理。

彼らが引退した次のチームでレギュラーを獲得するには、どうすればよいのか?

自分の特性と、チームメイト(ライバル)の能力を鑑みたら、

元々のフォワードなどの攻めのポジションは、強豪ひしめく激戦区

でも、サイドバックだったら、ライバルの数も少ないし、チャンスがある。

自分の特性を生かしたサイドバックの一点突破しかない。

そう決意して、過去の経験を全部捨てて突っ込んだわけです。

したら、その戦略がハマって、運良くレギュラーを獲得することができました。

「アオアシ」なんてなかった、20年以上前によくサイドバックに突っ込んだなー笑

 

スポーツって、比較的分かりやすいから、自分で目標を立てて、こんな感じで(めちゃ稚拙ですが)、自分の強みに依拠した、生存戦略を本能的に立てやすいように思うのです。

でも、この生存戦略も立て方は、スポーツに限らず、ビジネスパーソンも同じなのではないか?

上記の通りの、超稚拙な自分の過去の成功体験ではありますが、

やっぱり、どの戦略書にも書かれている通り、

まずは自分の強みをちゃんと理解すること。

ここが起点になる。

敵を知り、己を知り、百戦危うからず。

って、2000年以上前に孫子は言っていますしね。

今から振り返ってみて、自分を褒めることが出来る点があるとすれば、

・自分を強みをそれなりに正しく評価(分析)できていたこと

・それに基づいて、過去の経験に縛られず、ポジション変更を自ら選択できたこと。

この2点にあるのかなと思います。

図らずとも、この振り返りは今の自分にとってもめちゃ有意義でした。

過去をいつもより丁寧に振り返ってみる。そこには自分にプラスにエネルギーを与えてくれる教訓があることがあるかもしれません。

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【今日のうねり】
過去の経験を丁寧に振り返ってみることは大事だ。自分にプラスにエネルギーを与えてくれる教訓があることがあるから。
生存戦略の基本は、強みを起点にすること。ここに一番力を入れるべし。
それが明確になったなら、過去に縛られることなく、大胆に突っ込んでいく。
敵を知り、己を知り、百戦危うからず なのだ。