「〇〇が来たら×××をやる」という構文って、もったいない

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令和2年睦月12日  今日もクルクル通信503号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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昨日実家に戻りました。

母が、「ブログ、500号はすごいじゃない」と言ってくれたので、

「そうなんだよ。500日連続ってのは、まぁまぁすごいよね笑」

横で聞いていた父が、「なんだ、それ?ブログ500号もいったんだ。それは凄いわな」
と言っていました。

499号、500号、501号。

どれも、同じ1回の投稿には違いありません。でも、そこには明確な意識の違いがありました。

実際、500号を投稿した時は、それなりの達成感がありました。

ところが、翌日501号を投稿した時には、その達成感はどこかに行ってしまっていて、いつもの1号になってしまっているんです。

本来であれば500号より501号の方がすごいことなのに。

数を積み重ねていくという行為においては、

桁が変わる瞬間というのは、意識が大きく変わるようですね。

例えば年齢。

振り返ってみても、一番大台に乗ったなって感じがしたのは30歳になった時ですね。

それは、「アラサー」って言葉を聞いていて、それも使い、実際にそれになったから。

30歳は大人の仲間入りしたみたいな感覚があったのか?

明確な理由はよく分からないんですが、30歳の誕生日を迎えた時はなんだか達成感がありました。

が、この達成感も次の日にはどこかに行って、いつもの毎日に戻っていきました。

35歳になった時には、なかったんですね、この感覚は。不思議なものです。

あるいは年収もそうでしょうか。

3桁万円が4桁万円になった時。大きな達成感がありました。

でも、そうなると、1000⇒1100のような、3桁の成長に大きな成果を感じなくなってしまう。

大きな話のはずなのに…贅沢なものです。

プロ野球選手で言えば、.299と.300の1厘の差に途轍もない断絶があるような感じでしょうか。

この1厘の差が、3割バッターと、2割バッターを生み出すのですから。

桁が変わるというのは何かエネルギーがあるようです。

来週、ちょいちょいブログで書いている祖母は101歳になります。

ちょうど1年前、99歳から100歳になる時は、ご本人も周りはピリピリしていました。

その実際に、誕生日を迎えることが出来るのか?

家族一同で集まる、誕生日パーティーをちゃんと開催できるのか?

その緊張感は十二分に我々にも伝わってきていて、ちょっと弱気になる発言も出たり、若干心配になるようなこともありました。

でも、それを超えた後は、去年一年間は、「前年よりも元気なんじゃないか?」と思わせられることがしばしばありました。

で、これはひどい話なのですが、私を含めた周りが、100歳を迎える前よりも101歳を迎える、この瞬間に気を使ってないように思うのです笑

「次も大丈夫だな」って。どう考えたって、100歳より101歳のはすごいのに。

不思議なものです。

なんでこんなことが起こるのでしょうか?

きっと桁が変わると、見える景色・世界が大きく変わるからなのでしょうね。

桁が変わった瞬間に、それ以前の自分が一気に陳腐化するから。(そんな気になるから)

凄いと思っていた世界がいざやってくる。それに慣れると、それが当たり前になるから。

どうせトライするなら、桁が変わるまでやった方が良いってことですよね。

この桁の変わる瞬間。それに合わせた達成感って、最初はわりと早めに来るんですよね。
0⇒10。10⇒100。100⇒500、500⇒1000。1000⇒5000.
積めば積むほど、それがどんどん遠くなっていく訳です。

だからこそ、ある意味、その分負荷が高まっていきます。でも、その分達成感が増していくように思うのです。

積み上げていくことは、積み上げていけばいくほどに大変になっていく部分もあるのかもしれません。

私は500日を超えましたが、師匠の鮒谷さんは既に5900日を超えています。

500日になってみて、初めて意識したことがありました。それは、

「あっ、これって、もし鮒谷さんが先に亡くなって、私が、さらに10年以上書き続けない限り、この数字の差って埋まらないんだな」

ってことです。

別に、「超えたい、超えたくない」という話ではありません。数を競いあってるわけでもありませんから。

何を感じたか?と言うと、

時間ってものは、後からどこかで「倍速にしてほしい」とか、「巻き戻してくれ」って思っても、絶対にできないもの

言い換えれば、

時間は不可逆的であり、過ぎ去ったものは、二度と回収できないもの

だということです。超当たり前すぎることなんですが…

ドラッカーが言う、

成果の限界を規定するものは、もっとも欠乏した資源である。それが時間である。時間は、借りたり、雇ったり、買ったりすることはできない。その供給は硬直的である。需要が大きくとも、供給は増加しない。価格もない。限界効用曲線もない。簡単に消滅する。蓄積もできない。

を、改めてリアリティを持って感じだってわけです。

誰にも平等に与えられている時間は、残酷なことに、何もしてなくても、意味があることをしていたとしても、

同じように過ぎ去っていくってことなんですよね。

 

例えば、次の誕生日が来たらダイエットを始める、禁酒をする。

というような感じで、

〇〇ができるようになったら、×××をスタートする。

という構文を発動することってありますよね。

新しいスタートを切るのにふさわしい日を設定するやり方です。仮に、その日がずいぶん先だったとしても。

次の春が来たらスタートする。

みたいな。

しかし、その新たにスタートすることが、自分にとってプラスの変化を与えてくれることだったとしたら、

その期日まで待つことになんの意味があるのだろうか?

そんなの待たないで、今すぐやった方がいい。

って、ある時から、思うようになりました。

時間は残酷なほど平等に流れていくのだから、良いことだったら早くやった方がいい。

早く成果が出るし、その成果を享受する時間がどんどん長くなるから。

成果が成果を呼び、加速的に変化が生まれるから。

最初の一歩が、どんなに小さかったとしても、長い時間で見たら、早ければ早いほど、そのインパクトが大きくなる。

時間は複利で効いてくるんですよね。

巧遅より拙速

という言葉もありますよね。

いいことだったら、前倒しでやる。

速さの中には、2種類あると思います。

着手の早さと、物理的な処理の速さ

です。

どちらも、めちゃ大事ですが、どちらかが大事なのか?と問われたとしたら、

着手の早さ

と答えると思います。

なぜなら、早く行動できる人は、時間を味方につけて、そこで学んだことを、追々行動に反映させていくことが出来るから。

結果的に、物理的な処理の速さもついてくると思うからです。

速さよりも、早さ。

かなって。

「プロフェッショナル-仕事の流儀」の主題歌、スガシカオの「Progress」は、こんな歌詞で始まりますよね。

ぼくらは位置について、横一列でスタートをきった

今日が人生において一番若いわけですから、何か始めるなら、今日。この瞬間なのです。
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【今日のうねり】
桁が変わると、意識が変わる。見える景色が変わるからだ。
その瞬間の達成感も格別に大きいのも事実だ。
だが、その瞬間ってのは、最初はわりと早く訪れるが、続ければ続けるほど、滅多に来なくなる。
この観点で言えば、続けることは、長くなればなるほど大変ともいえるのかもしれない。

時間は、不可逆的。過ぎ去ったものは後でも、二度と戻ってこない。
もし、新しいことをスタートするとしたら、今すぐやった方が良いのだ。
時間は返ってこないだけでなく、複利で効いてくるものだから。どんなにスタートは小さな一歩だったとしても、長い目で見たら、
その一歩がとてつもなく大きなものになるから。
着手は早い方が良いのだ。