成果にまつわる泥臭い話

==========
令和2年如月25日  今日もクルクル通信546号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
==========

<行動量×行動質×時間>という体積を最大化

成果はこれによって決まる。そのために、

<努力>を絶対肯定する物語を信じて生きているのか?

そんな話が昨日のセミナー@大阪でありました。

もちろん、そもそも、<覚悟>があるのか?がそれ以前の前提としてではありますが。

この物語を信じることが出来るのかどうかは、まずは、どんな小さな経験でもいいから、上記の体積を最大化する取り組みをしてみるとよい。

それが出来れば、自分の中で、「この考え方は大丈夫なやつだ!」という<思い>が形成されるようになるから。

それがいったん形成されると、さらに、もう少し大きな経験にチャレンジが出来るようになる。

そこでも成果を上げられると、<思い>が<信念>に変わり、自己強化ループが発動され、さらに大きなチャレンジが出来るようになる。

まずは小さい成果を確実に出す。焦って大きなことのチャレンジをしないことが肝要です。

難しいことにチャレンジをして、失敗すると、心が折れてしまいますからね。

仮にこの体積で成果が決まるのであれば、一番大切な要素は、

行動すること

になります。

行動の量行動の質のどちらの大きさを決めるのも、行動だからですね。

二重に効いてくるってことです。

行動が大切。当たり前の話ですよね。

でも、たとえ、センスや才能を持っていたとしても、理論ばかりをを読書で学んだとしても、成果はそこまで上がらない。

もちろん、それがあれば、成果は上がり安いかもしれませんが、各要素に掛け合わせる係数って位置づけになるのではないか?

結局、行動をしなければ成果は上がらないのです。

 

この話を聞いていて、30万部の大ベストセラー<グリット>で書かれていたことを思い出しました。

読んだ方も多々いるかと思いますが、この書籍に、

才能×努力=スキル

スキル×努力=達成

努力が二重で効いてくるのだから、努力が一番大事だ。

どんなに才能があったとしても、努力で磨きをかけなければスキルは身につかない。

スキルがあったとしても、努力で磨きをかけなければ成果を上げることは出来ない。

という話があります。

私は、<努力>を絶対肯定する物語を信じて生きているので、この本を読んだ時に、ビビビッと来ました。

私が努力や行動。継続と言った、地味な戦い方しか持ち合わせていないだけではありますが…笑

もちろん、これ以外の方法で成果を上げている人もいらっしゃるかもしれませんが、あんまり存じ上げません。

私の身の回りの成果を上げている人は、すべからくこの物語を生きているように思います。

例えば、

汗から血が出るほど働け!

先日ご紹介したスタミナ苑のマコさんのこの一言からも、彼がその物語で生きていることは疑いの余地はありません。

あるいは、希代のマーケターとして活躍されている元USJの森岡さんだって、その類の方だと思います。(近くはないですが)

徹底的な現場主義。USJに<モンスターハンター>を誘致する際は、

「なぜ、あのゲームがあんなに流行っているのか?実際に、自分がやってみなきゃわからない」と、睡眠時間を削って、一気に400時間を投じたというエピソード

が書籍にも書いてありましたから。

 

恐らくなのですが、たぶん、これが真実なんだと思うのです。

成果を上げている人は行動をしまくっている。努力に努力を重ねているんです。

ただ、人々が、その人を認識するようになるのが、成果を上げてからなんですよね。その過程に意識が行かないから、後からそれを見た時に、「天才!」なんて言うんじゃないかって思うのです。

実際に、そのように呼ばれる方はどう思っているんでしょうかね…

<グリット>には、ニーチェのこんな言葉も紹介されていました。

===
あまりにも完璧なものを見た時、我々は「どうしたらあんな風になれるのか?」とは考えない。その代わりに「魔法によって目の前で奇跡が起こったのかのごとく熱狂してしまう」

芸術家の素晴らしい作品を見ても、それがどれほどの努力と鍛錬に裏打ちされているのか?を見抜ける人はいない。その方がむしろ好都合と言っていい。気の遠くなるような努力の賜物だと知ったら、感動が薄れるかもしれないから。

天才というのは、神がかった存在だと思えば、それに比べて引け目を感じる必要がない。「あの人は超人的」だというのは「張り合っても仕方ない」という意味なのだ。言い換えれば、

天賦の才を持つ人を神格化してしまった方が楽なのだ
===

この話がやっぱり真実で、成果は、努力や行動で決定づけられるとするならば、

最初から優れた人はほぼいないっていうことになります。

でも、人は優れた人しか認知しないから、そのしょぼい時代に目もくれない。というか気づきようがないんですよね。

そもそも、認知には限りがありますし、これだけ認知が奪われる世の中なのですから、本当に優れたものしか目に飛び込んでこない。

目の前のことに没頭したら、その前を通過したゴリラにすら気づくことが出来ないのが人間なのですからね。

であるならば、

<努力>を絶対肯定する物語を信じて生きるのが良いんじゃないか?

って思うのです。

今がどんなにしょぼくても、恥を撒き散らしたっていいってことですよ。

何者でもない人のことなんて誰も見てない。発見しようがないんですから。

堂々と好き勝手、自分がやりたいように、目標に向かって突き進めば良いんです。

「一流の人が行っている当たり前のこと」という研究論文に、著者のダニエル・F・チャンプリスは次のように書いているそうです。

===
最高のパフォーマンスは無数の小さなスキルや行動を積み重ねた結果として生み出される。

それは本人が意識的に習得する数々のスキルや試行錯誤する中で見出した方法などが、周到な訓練によって叩き込まれ、習慣となり、やがて一体化したものなのだ。

やっていることのひとつひとつには、特別なことや超人的なところは何もないが、それらを継続的に正しく積み重ねていくことで生じる相乗効果によって卓越したレベルに到達できる。
===

行動量と継続日数は自らの手で積み上げ、行動の質は良いお手本に学んで高める。

そうやって、成果と言う体積を最大化するのです。
*****
【今日のうねり】
成果は、<行動量×行動質×時間>という体積を最大化することによって決まってくる。
それをするには、<努力>を絶対肯定する物語を信じて生きることが出来るとやる安くなる。
努力や行動をすることによってしか、成果は生み出されない。最大のファクターなのだ。
もちろん、センスは才能もあるが、それは係数程度でしかないのだ。
そのことは、グリットにもかなり語られている。
当たり前のことを継続的に正しくやり続けるという習慣があるのか?
一流の人はみな、それを身に着けている。
でも、人は、その泥臭い部分を信じたくない。天才として神格化したいのだ。それの方がラクだから。
しかし、私は、努力を全肯定する生き方をする。
行動し、継続し、良いお手本に習って、成果を上げるのだ。