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令和2年皐月8日 今日もクルクル通信619号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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数年前まで、上野公園の近くに、「池之端藪」というお蕎麦屋さんがありました。
「神田藪そば」の暖簾分け店でしたが、ここがめっちゃいいお店でした。
味も雰囲気も。お店の方々も。中でもお店を切り盛りする女将さん、おそらくその娘さんである若女将さんが揃って美人。行けばいつも行列でした。
肝心の蕎麦は、冷たいのも、あったかいのもどちらも美味しいんですけど、「巣ごもりそば」というかたやき蕎麦が絶品でした。
他ではお目にかかったことがなくて、閉店してしまってめちゃ残念です。
同じ商店街(と言っても、今では飲食店にキャバクラありのこじんまりした繁華街)には、「蓮玉庵」という、これまた老舗のお蕎麦屋さんがあります。
藪蕎麦がなくなった今、もっぱら落語の前にそばが食べたくなったらここに行っています。
「池之端」に「蓮玉庵」。池に絡む名前が多いのですが、江戸時代はこの辺りまで、上野の御池(現不忍池)が張り出していたらしいです。今よりだいぶ大きかったようですね。
古今亭志ん生の何のネタ(確か怪談)か覚えていないですけれども、マクラで「その昔は、この上野の御池から、龍が上がった」なんてのを聞いたことがあります。
当時は電灯もないので真っ暗。人も少なくて、夜はシーンとしている。龍が舞い上がってもおかしくないぐらいの雰囲気があったんだと思います。
今朝の散歩で、北の丸公園まで行ってきました。もちろん、スマホもイヤホンも持たずです。
この公園、緑が本当に豊かで、千鳥ヶ淵側の土手の方はかなり緑が深いんです。太陽が隠れるくらいの場所もあって、朝だとまだだいぶひんやりするほど。
東京のど真ん中でこれほどの自然に触れることが出来るとは!?というレベルです。
真ん中にある池には、私が確認した限り、かなり大きい黒い鯉が4匹います。
天気も良いし、朝から散歩をしていれば、良い感じで思索が深まっていきます。
実は、「池に鯉がいる」ってことを知ったのは、つい最近なんですよね。もっと言えば、スマホを持たないで散歩するようになったこの一か月なんです。
何度も行ったことがありましたが、鯉がいることも知らなかったし、森の深さも大して感じていなかったんですよね。
それは、言うまでもなく、「手のひら」に認知を持っていかれていたから。あるいは、耳に突っ込んでいる音源に認知を持っていかれていたからです。
周りを見ているようで、全然見てなかったんですよね。
もちろん、意志を持って「音源を聞く」ということであれば、全然OKだと思うのですが、なんとなしに…という手持無沙汰で、スマホに意識を持っていかれるのはもったいないんですよね。ポケットに入っているだけで、そこそこの意識を持っていかれてしまいますから。
私が極端に持っていかれているだけかもしれませんが…笑
仮にそうだったとしても、だから、鯉に気づかないのです。緑の深さに気づかないのです。
でも、今朝は、その今まで気づきもしなかった鯉にちょっと見入ってしまいました。
デカいし、その進みはゆっくりだし。顔が怖いな。食べられたくないなとか。
古今亭志ん生のマクラよろしく、
「深夜にここに来たら、この鯉が巨大になっていて、襲ってきたらどうしようか?」
とかも考えました、龍じゃないけど。
こうやってフィクションは生まれるのか?とか笑
一人の時間を持つってことはめちゃ重要なことだ
って、最近、強く思うのです。
リラックスをして一人になると、自動的に自己の対話や思索が進むんですよね。
理想を言えば、ほぼ手ぶら状態が良い。その時に、スマホ(のような認知を奪うもの)を持っていたら、価値が激減する。せっかく、一人になると自分に向かうはずの意識が、そっちに持っていかれてしまうから。
一人なようで一人じゃない。みたいなになってしまう。
自分は飛んでいこうとしているのに、紐で引っ張られ続けている「凧」みたいな感じ。
飛んでいけない。発散できないように感じるんですよね。
ホント、日常ってとんでもない情報に包囲されていますから、本当の意味で解放されている時間ってほとんどないんですよね。
だからこそ、なおさらフリーな時間が必要だと感じるのです。
先日、松井道夫さんの書籍、「みんなが西むきゃ俺は東」を読みました。ウェブの記事を読んで、久しぶりに松井さんの本を読みたいと思って、中古で買ったんです。
数ページ読んだところで、「これ読んだことある。ってか、実家にある」って気付いたんですけど笑
そこにも、「経営者には孤独な時間が必要」って書いてあったんですよね。
その理由は、最後は自分一人で決めなきゃいけないからというものでしたが。
たぶんですが、一人にならないと深い自己との対話が出来ないから。意思決定が鈍る可能性があるってことなんだと思います。
独自性は思索からしか生まれない
そんな話を鮒谷さんがして下さったことががありますが、
独自性は、強みの掛け合わせで生まれるものです。ちょうど、ビタミンDが活性状態になるのはマグネシウムが不可欠のように。
その掛け合わせを発見するためには思索する時間が必要であり、その時間は一人の時間がベストです。
スマホから解放され、自然の中で一人の時間が持つことが、独自性の発見に役立つこともあると思うのです。
散歩って重要です。
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【今日のうねり】
独自性は思索からしか生まれない。その独自性は、強みの掛け合わせから生まれる。その掛け合わせの発見には、思索が必要であり、その思索は一人の時間から生まれるのだ。
その一人の時間は、手ぶら状態が望ましい。その方が自己との深い対話が出来るからだ。
その時間にスマホは手放す。あるだけで、意識が持っていかれるからだ。凧あげの凧みたいに、発散されることがないのだ。
思索の時間をいかに作るのか?が生きる上で重要なのだ。