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令和2年葉月18日 今日もクルクル通信719号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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「分かる」は「分ける」
としばしば言われます。
分かっていることは、分けることができるという意味です。
これを筋トレの具体例で見てみます。
例えば、
「胸筋をつけたいんですよね」
と、ジムのトレーナーに言ったとすると、
「胸筋ですね。胸筋は、上部中部下部の3つのパーツがあって、それらをまとめて大胸筋と言っています。より細かくというと、上部は〇〇筋で」
みたいに分けて説明すると思います。(私のイメージです笑)
私にとっては、ただの「胸筋」でも、分かっているトレーナーの頭の中では、その胸筋を三つに分けられています。
さらに、
「中田さん場合は姿勢を良くするのが目標ですから、胸筋の中でも上の部分を鍛えた方がいいんですよね。筋肉だけでなくて、柔軟性も出てきますから、自然と胸も張れるようになっていきますからね。
なので、メニューとしては、ベンチプレスよりも、斜めに角度をつけてのダンベルフライの方がトレーニングとしてはおススメです」
みたいな話になります。
ここでもやっぱり、分けていますよね。
私のトレーニングをする目的の「姿勢を良くする」を分解していますよね。
その目的における、胸筋の役割は何か?
それをどう鍛えれば、良いのか?
そこにたどり着けるのか?
などを分けて考えています。
もし、こんな感じで、話をしてもらえれば、「この人、わかっているよね」って思ってしまうと思うのです。
今回の話で言えば、
分けるを規定しているのは、知識です。もっと言えば、言語です。
胸筋をばくっと「胸筋」としか知らない人には、そこのパーツを「分けること」なんてできないですからね。
と言いますか、「分ける」という発想にすらならないと思うのです。
あるいは、別の例で考えてみます。(以下、内容は超テキトーです。全然真偽は分かりません。イメージです)
「頭が痛いし、食欲がないんです」
と症状を訴える患者さんがいたとします。
「夏バテですね」
と一言で言うお医者さんと、
「いや、暑さで水分不足になっていますね。汗でどんどん体から水分が出てっちゃいますから、まずは水を徹底的に取ってください。頭痛はそこから来るんだと思います。
あと、ビタミンCもバンバン取ってください。
体中の水分が元に戻ることによってだいぶ改善すると思います。夏バテってやつですね」
なんて説明&診断してくれるお医者さん。
「どっちが「分かっている」先生なのか?」と言えば、火を見るよりも明らかですよね。
症状を見て、その原因を特定する。原因を分けることとが出来る。
だから、数ある処方の中から、一番良いものが分かるんですよね。
まあ、前者は、分ける、分かる以前に、態度の問題になってしまいそうですが…例がイマイチでしたね。すみません。
また別の例だと、例えば、「アイスクリーム屋さんの売上を伸ばしたい」という話があったとします。
そのまま「売上」を伸ばす施策だけを考えようとするのか?
そもそも、「売上」ってどう決まるのだろうか?
「来店人数とその単価」で決まるからって分けて考えることができるのか?
単価を上げようとするなら、普通に今ある商品の単価をあげるのか?
セット販売を強化するのか?
など、分けることができる分だけ、分かる=深く理解・考えることができるのだと思うのです。
このように、分けることができれば、分けられないよりも、分かることができる。
より深い理解が出来ることは間違いなさそうです。
分けることの根底には、知識が必要です。より抽象度を上げると「言葉」とも言えます。
哲学者の、ヴィトゲンシュタインは
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する
という言葉を残しています。
おそらくこれも、「分かるは分ける」とかなり意味としては近しいのだと思います。
分かることは言葉にすることができるけれど、分からないことは言葉にはできない。
言葉にならないことはわからない。わからないところが、自分の世界の限界
ということなのでしょう。
もし、自分の世界を広げて行こうと思うならば、経験や知識を増やしてくことは欠かせない。
でも、それを言葉にして書き現すことなしに、自分の血肉にすることは出来ない。分かるようにはならない
ということなのかもしれません。
分かるようになるために、世界を拡げるために、言葉にすることの大切さを改めて考えるのです。
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【今日のうねり】
分かるは分ける
だ。
分けることができなければ、分かることは出来ない。
分けるためには、知識や学びが必要だが、それらは言葉で記述されているので、
言葉なくして、分かることはないのだ。
言葉に最もセンスティブになって、多くを学んでいくのだ。