【修行】と【トレーニング】この言葉を意識的に使い分ける

内田樹さんの書籍【修行論】を読みました。
合気道七段の内田さんですが、【はじめに】がなんともかっこよく、刺さりました。その視点はなかったよ!でした。
曰く、【体を鍛える】という言葉に違和感を感じる
なぜなら、修行をして得られるものは、例えば、上腕二頭筋が1センチ太くなった、胸筋がこれだけついた、といった類の【度量衡で測れる種類のものではない】から。身に付くものは、
得られるものは、例えば、重いものを持っている過程で、【重心移動が上手くなって】、その結果、重たいものを体に負荷をかけずに持てるようになった。といった類のものであり、これは【鍛える】という表現は不適当ではないか。これらは、初めから狙って身に付けられるものではないし。
言い換えると、修行で身に付くものは、これをすれば、あれが身に付くといった【努力と成果の間に一次方程式な関係があるものではない】とのことです。
あるいは、【努力と成果の商取引があるものではない】とのことです。
商取引であるならば、【トレーニング】といった方が良いだろうと。
トラック種目であれば、
一周を何秒縮めることが出来たか?(=計測可能)
と捉えるのがトレーニング。
一方、修行は、
400mトラックを走っていたら、また別のトラックが見えてきて、そこを走る。最初に走っていたトラックと、新たに見えてきたそれは距離も方向も異なっている。【自分だけのトラック】を走るもの。やればやるほど、どんどん違うものに出会えていく。
やる前から何が手に入るか?予測もできないし、でもやり切れば【何か】が手に入るもの。度量衡で測れない何かが。(=計測不可能)

めちゃくちゃかっこいいですよね。
修行って、きっとあることに没頭没入しているうちに、個人が自分自身と向き合うことになり、その中で何かを手に入れていくプロセスなんだろうと思いました。その過程で、自分自身の過去や人生観、価値観と結びついて、オリジナルな何かを学び取っていくもの。人それぞれが異なるからこそ、それぞれ得られる何かは異なる。でも、何物にも代えがたい貴重なものを得られるものなんでしょうね。
なので、
スキル(アプリケーション)を身に付けるのがトレーニング。
もっと本質的な、OS的なもの。幹の部分を身に付けるのが修行

と解釈しても良さそうです。
この使い分けは整理としてはアリかもしれませんね。
今はトレーニング。これは修行と意識出来れば、例えばなかなか成果が出なかったことがあったとしても不必要な焦りも生まないでしょうし。

一流の人っては修行をしているんだと思うんですよね。
自分と向き合いながら一つのことを極めていく。
その過程で、自分なりの哲学や【道】を見出していく。
一流を目指し、自分なりの【道】を見出せるような歩みをしていこうと思います。

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