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令和3年5月2日 今日もクルクル通信975号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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短期でなく長期で。
甲子園のような一発勝負ではなくて、プロ野球のようにシーズンを通して、
成果を上げ続けることができるかどうか?
これがアマとプロの違い。
そのためには、”雀聖”阿佐田哲也こと色川武大さんの言葉を借りれば、
正しいフォームを身につけることが欠かせない。
昨日書きましたが、今日も続けます。
色川さんが仰っているように、確かにプロとアマの違いの一つは、そのフォームの有無だと思います。
ただ、フォームのような技術面ではなく、精神面においても、大きな断絶があるのではないか?
そんなことを思うのです。
いや、数日前に読んだ、『流星ひとつ』という沢木耕太郎のノンフィクションを読んで感じたのです。
また、沢木耕太郎さんの登場。
「どんだけ、ハマっているんだよ!」って話ですよね笑
でも、本当凄いんすよ。
この小説は、1979年28歳で、で芸能界を引退した藤圭子のノンフィクションですが、
「全編会話のみ」で書かれているという、異形の小説です。
藤圭子というよりは、我々の世代的には、「宇多田ヒカルのお母さん」といった方がピンとくる人が多いのかもしれません。
この中で、1979年の東京国際女子マラソンに出場した、ゴーマン美智子というランナーの話が出てきます。
彼女は、ボストンマラソン、ニューヨークシティマラソンで2回ずつ優勝しており、この国際マラソンでも上位を期待されていたランナーです。
ちなみに、日本出身の女子選手としてこの2つのレースを優勝したランナーは現在彼女のみだそうです。(2016年現在)
彼女は大会当日、絶好調だったらしいのですが、走っている途中に、かつての東京での生活記憶が頭の中でどんどん蘇ってきてしまったそうです。
今走っている駿河台下では、ああいうことがあった、皇居の近くではこういうことがあった。
みたいな感じで。
周りの風景が変わる度に記憶が蘇って懐かしくなってしまい、それによって気分的に心が満たされてしまった。
それで、人に抜かれても少しも口惜しいと思わなくなったらしいんです。
いつもだったらコンチクショーと思って抜き返すのに。
その結果、彼女は、10以内に入ることもできませんでした。
翌日、彼女は新聞で、優勝したスミスさんの談話を見て愕然としたそうです。
そこには、沿道での観衆から盛んな声援があったようですが?という記者の問いかけに対して、
「全く気が付かなかった。どのくらい声援してくれていたのか、全く覚えていない。
私はゴールだけを目指していたから」
と書かれていたそうです。
全く周りが見えなかった優勝者と、周りの風景が目に入ってきてしまった自分。
そこに決定的な差があった。
やっぱり風景が見えるようなんじゃダメなんだ、と。
ゴーマンさんは解釈したそうです。
その話を聞いた藤圭子は、こう答えます。
「そうなんだよ、周りの風景が見えてきちゃうと人間はもうダメなんだよ。トップを走ることができなくなっちゃうんだよ」
賛同する、藤圭子に対して、沢木耕太郎はこう言います。(以下抜粋)
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「確かに、何も見ないで走っているとき、その人は強いよ。何も見えないという状態は、走る人にとっては望ましいことかもしれない。
特に走りはじめたばかりの人‥‥つまり、その世界の新人には、あたりを見まわしている余裕なんかないから、風景も眼に留めずその世界を走り抜けることができる。
だから、新人は、ある意味で強いわけだ。しかし、やがて、その新人にだって、風景が見えるときがやってくる。
その契機がどういうものかはわからないけど、必ずやって来る。
あなたの論理では、そのとき、その新人‥‥もう新人ではないけど、そいつは駄目になってしまう、ということになる。
もしそうだとしたら、誰でも新人の時代が終わったらだめになるということになってしまうじゃないですか。
技術とか技能といったものが磨かれるということが、ありえなくなってしまうじゃない」
「人の場合は知らないよ。あたしは、あたしの場合はそうだったと言っているだけ」
「誰でも、初めの頃はひとつの方向に集中しているものだと思う。
でも、五年、十年と続けていくうちに、どうしても拡散してくる。それはどうしようもないことだと思うんだ。
しかしね、その拡散したあとで、もう一度、集中させるべきなんじゃないだろうか。
もしそこで集中できれば、新人の頃とは数段違う集中になるんじゃないだろうか」
「そんな、仙人みたいなことできないよ」
「ハハハ、仙人みたい、か。
でも、みんな、十年も同じことを一心にやっていると、風景が見えてくるんだよ。
ぼくの友人や知人たちも、みんなそこで頭をぶつけてるわけさ。
しかし、もう一度、あのスミスさんみたいに、周囲の情景は何も気がつきませんでした、という集中を手に入れたいと思って、悪戦苦闘しているんだよ。
やっぱり、それはやり続けることでしか突破できないと思うんだけどな」
沢木耕太郎『流星ひとつ』P238~239より抜粋
(読みやすさを考え、筆者(中田)が改行))
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藤圭子のように、頂点を極めたことはないですが、
仕事をやり続け、それなりに技術も技能も身につけることができるようになった時、どこかで周りが見えてくるようになることがあったか?なかったか?
というと、ありませんでしたか。
新人の頃はそれこそ、一心不乱で走り抜けていたから、周りを見ている余裕なんて一切ない。周囲のことなんてお構いなしだったけれども、ふとした瞬間に、周りに意識が行くようになったことって。
もしかしたら、それを「踊り場」と呼ぶのかもしれません。
その場に立った時に、
で、こっからどうすんだっけ?
って、考えるんですよね。
その時は新人では見えなかったことが見えるようにもなっているんです。
例えば、
自分はこれができるけど、あれができない。
とか、
あの人と比べるとここができない。でも、その差を埋めるのも難しそう。
とか。
周りが見えるようになるということは、他者中での自分の立ち位置が見えるようになること。
と、言えるのかもしれません。
それが見えてしまうからこそ、
自分に何ができるのか?
と必要以上に問い、前に進めないこともあるのかもしれませんし、
それが、再び新人のように無心で走ることを阻害している、メンタルブロックとなってしまうこともあるのかもしれません。
でも、周りが見えてからもなお、もう一度、走る方向を決める。沢木さんの言葉を借りれば、
やり続けることができた人だけが、更なる集中を持って、自らを前に駆動させることができる。
そうして走り抜けた人だけが、新人からの脱皮を遂げることができるんです。
そして、この周りが見えることというのは、それ以降も幾度となく、起こることなのかもしれません。
でも、それに直面する度に、それを超えて行けるかどうか。
これが、アマチュアとプロフェッショナルを決する大きな断絶ということはできないか。
そんなことを思ったのです。
詩経には、
「始めあらざるなし、克(よ)く終わりある鮮(すく)なし」
という言葉あるそうです。これは、
何事も初めはともかくやっていくが、それを終わりまで全うする人は少ない。
つまり、終わりまで全うすることの大切さを説いた言葉です。
長期的に成果を上げ続ける、プロフェッショナル。
そうあり続けるためには技術的にも精神的にも、極めて高いものが要求されるのです。
いやー、道は険しいですね。でも、やり続けるしかないのです。
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【今日のうねり】
誰でも最初は無心で走り続けるから周りが見えないものだ。
でも、ある時、ふと見えるようになることがある。
そして、そこで止まってしまうのだ。周りが見えるということは彼我の差に気づいてしまうということだから。
でも、それに気づいても、周りが見えたとしてもなお、再び、新人のように無心で走ることができた人が、更なる集中を手にし、アマチュアからプロフェッショナルになれるのだ。
幾度となく訪れるそれを乗り越えることができる精神力をも兼ねそろえた人だけが、プロフェッショナルになれるのだ。