千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「練」とよぶ。

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令和3年5月27日  今日もクルクル通信1000号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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ブログを書き続けて、1,000日になりました。

この1,000日の間、

シャワーを浴びなかったことも、

滅多に飲まない酒を飲み過ぎて、歯磨きを忘れてしまったことも、

インフルエンザになってしまった日も、

「やべえ、マジで、今日書くことが何もない。ネタ切れだ、どうするよ、どうするよ俺?」なんて日も、

ありました。

でも、書き続けてきました。

そうまでして、毎日書き続けることにどんな意味があったのか?具体的に述べよ!

なんて言われたら困ってしまうのですが笑

確実に一つだけ言えることは、

1,000日前よりも、自分を信じることができるようになった

ということです。

大変ではなかったですが、ラクでもなかったので。

でも、1,000日続いたことに対する、とんでもない達成感とか満足感があるか?というと、そんなこともありません。

もっと盛り上がるもんだと思っていたので、ちょっと拍子抜けすらしています笑

ファイナルファンタジーで、レベル25前後ぐらいで、HPが900台から1,000台に上がる瞬間ってあるじゃないですか。あの時の高揚感と似たようなもんです。

初めて見る、4桁のHP。例えば、1024を見た瞬間に、妙にテンションが上がって、すっげえ強くなったって勘違いをするんですけど、

次のバトルをすれば、実はほとんど能力は変わっていない。四桁の世界も、今までと大して変わらないじゃん。という現実を突きつけられる。

あんな感じです笑

次、桁が変わる瞬間を味わえるのは、1万号ですから、今から27年後の話です。

さすがに30年間1日も欠かさずにやり続けることがあったとしたら、とんでもない満足感と誇りを持てるはずです。

とりあえず、それを目指しつつも、まずは次の10年。3,650日連続投稿を目指します!

 

時を同じくして、偶然にも、生まれて初めてチャレンジした、著者の「縦読み」が先週終了しました。”沢木耕太郎倒し”が終わりました。(対談本や写真集を除く)

最後の作品である、『春に散る 下』の最終版ページを手繰っている時は、1,000ページ弱の作品が終わる寂しさよりも、

「沢木耕太郎が終わってしまう」という寂しさの方が圧倒的に大きかったです。

今まで読んだ一番の長編作品は、おそらく司馬遼太郎の『竜馬がゆく』ですが、あれを読み終えた時以上の喪失感があったことは言うまでもありません。

この週末、少なからぬ人が「ガッキーロス」に苛まされたかもしれませんが、私は、一人「沢木耕太郎ロス」を超えていこうと努めていました笑

とはいえ、完全に超えられたわけもなく、今は、彼が「選択」をテーマに選んだ、『右か、左か』という文学作品選を読んでいます。

これは、芥川龍之介、吉行淳之介、坂口安吾、山本周五郎、阿佐田哲也、村上春樹などなど、名だたる作家の短編が編まれた作品集ですが、

いちいち全部がすごいんです。

それを読むたびに、打たれまくるんです。

平日の真っ昼間からいい大人がこんな小説を読んで、一編読み終わるたびに、

「やべえ、すごすぎる」なんて言いながら椅子から立ち上がっているシーンを想像してみてください。

滑稽にもほどがありますよね笑

さすがに1,000日間、毎日1,600文字以上書き続けたのだから、少しは書く力も上がっただろう、なんて思っている節もありましたが、おこがましいにもほどがありました。

次元が違いますね、やっぱりプロの作家は。まあ、もともと分かり切ったことではありましたが。

しかも、名作家の沢木耕太郎セレクションですから、凄い作品ばかりに決まっているんです。

どうしてこんな表現が書けるのか?なんて、ドッグイヤーをしてしまっています。

例えば、上手くコンタクトを取れなくなった人に対する描写で言えば、
~~~
彼女は、その夜以来まるで手掛かりのない城壁のようになってしまった
庄野潤三 『プールサイド小景』
~~~
とか。

少なくとも、以前の私だったら、この表現をドックイヤーすることはまずなかったんですよね。

表現ということに、そこまでセンシティブではなかったですから。

書き続けるから、表現に対してアンテナが立つようになったんですよね。

表現に対して、「違いが分かる」ようになってきたと言えるのかもしれません。

(ネスカフェのCMには出れませんが笑)

言い方を変えれば、表現についての細かい部分に意識が向くようになったということです。(あくまで自分比です)

そして、プロの作家さんは、私なんかが到底も及びつかないようなところに、意識が向いているんですよね。

だって、プロですから。

「分かる。は、分ける。」と言われるように、細かく分けることができればできるほど、それが分かっている。深く理解をしているということ。

それが出来るのがプロなんですからね。

この伝で言えば、

その昔あった、TV番組の「とんねるずのみなさんのおかげでした」に、「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」は、素人以上に玄人が受けていたのかもしれません。

私もたまに見て、笑っていましたが、その芸人のギャグそのものにウケていたというよりは、その細かさに突っ込んでいるタカさんやノリさんを見て、笑っていたような気もします。

芸の細かさなんて分かっていなかった、って節が大ありなんです。

このまま書き続けていれば、表現に対してもっとセンシティブになるだろうし、表現力も磨かれていくだろうと思います。

それは結果的に、言葉を扱う力に繋がり、それがビジネスパーソンとしての欠かせない力になるとも信じています。

だからも、これからも書き続けていきます。

 

宮本武蔵は五輪書の「水の巻」の最期に

千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を「練」とす。

と書いています。

倦まず弛まず、日々の稽古を続けて行きます。
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【今日のうねり】
プロとは違いが分かるもののことを言う。
分かるは分けるなのだから。
それができるようになるには、日々、稽古をしていくしかない。
宮本武蔵曰く、千日の稽古を「鍛」とし、万日の稽古を練とよぶ。 のだから。

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