慶應ラクロスで学んだこと-基準を得る-

明日は4月1日。新生活が始まりますね。
2002年の4月1日、僕は慶應義塾大学経済学部に入学し、体育会新種目団体ラクロス倶楽部に入部しました。
今では【体育会ラクロス部】ですが、当時はまだ新種目団体という体育会の正式種目ではなかったです。
そのラクロス部で過ごした4年間で学んだことを、敢えて一つだけ挙げるとすれば
基準を得た
ことです。
この一言に尽きます。
もう少し具体的に言うと、
【日本一】を目指す活動基準を知った
ということです。
当時は、
「えっ、あれって男子でもやるの?女の子のスポーツでしょ!?」
とか、
「ラクロスって誰でも日本代表になれるんでしょう!?」
など、よく言われました。
前者は、今でもたまに言われますが…
当時は、ラクロスの認知は今まで以上に低く、まあ野球やラグビーやアメフト、サッカーなどのメジャースポーツを高校までやってたけど、大学の体育会では通用しないような二流のプレーヤーが、集まっている部活なんて思われていたフシもありました。
全否定できない部分もあったのも事実かと思いますが…

しかし、入部した慶應ラクロスは【日本一】を本気で目指していました。
とにかく、毎日のように【日本一】という単語が出ていました。
「これで日本一になれるの?」
みたいな感じです。
この【日本一】は学生日本一ではなく、社会人も含めた日本一のチームです。
逆に言えば、学生日本一は当たり前。【アウトオブ眼中】といった雰囲気すらありました。
4年間で最も日本一に近づいたのは、大学1年生の時。決勝で延長戦で敗れた時です。
その後も僕らが4年生になるまで、連続で準優勝でした。
お恥ずかしいことですが、我々は準決勝で敗退しました。

こういったチームでしたから、日本代表選手も多く在籍していました。
この4年間で、
日本一ってどういうことなんだろう?
どうすればそれが達成できるのだろうか?
どれほどの練習をすれば、どういう心構えで日々取り組めば、それを語るに足る人間になり得るのか?
ということを先輩方を始めとした仲間の姿勢を見ながら自問自答していたように思います。

今、振り返ってみると、この時の経験が今の僕を形作っている、非常に大きな要素になっています。
選手としては万年ベンチの三流でしたが…笑
このラクロス部に在籍したからこそ、電通にも入社したんだと思います。

やっぱりそこにはNO1の流儀がありました。
日本一の仕事がありました。

ラクロスなんて人口が少なくてしょぼいスポーツなんでしょ?
って仰る方にも沢山出会いましたが、
規模ってそんなに関係ないってことが、電通に入って分かりました。
どんな世界でも一番になる
ってことは一定以上の高い基準を超えなければならない。
努力総量に大幅な差がないってことが、わかりました。
電通を退社するときに、多少なりとも引き留めて下さる方がいらっしゃいましたから、僕がラクロス部で培ってきたことが、その基準を一定量満たしていた
と言っても問題ないでしょう。
なので、
鶏口なるも牛後となるなかれ
小さな池の大きな魚

というのは、やっぱり本当で
どんな基準と触れるのか?
どこを目指すのか?
何を見て生きるのか?
ということは、人生においてとても大切だと改めて思うのです。
一定以上高い基準であれば、どんな基準であれ、およそ同等の活動量が求められる。どうせ同じ量をやらなければならないのであれば、
「おぉ、これはすごい!」
って感動できるようなベンチマークを持っていたい。
それを目指して生きた方が幸せだと思うのです。
感動の基準を下げない。
目線は高く、毎日を歩むんでいくのです。
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