言語爆発期の子どものごとく生きてみる

言語爆発、語彙爆発というのがありますね。
2~3歳児の子供が、急激に言葉をしゃべり始めることのことですね。
しかし、この言語爆発に突入する以前はというと、はっきり言って、ほとんど言葉を喋っていない状態ですよね。
「アー」とか「ウー」とかからは始まって、その後、
「マンマ、ブーブー、ゴーマ」
といった単語が話せるようになって、
「止まった、ブーブー」
「あれ、落ちたよ」
みたいな、少し文っぽいものになっていく。
文法なんてものは全くないですが、次第に、文章になって、文法も整って、言語を習得していくんですよね。

学問的なことは一切分からないのですが、なぜ言語爆発が起こるか?とちょっと考えてみると、大きく二つの理由があるのでは?と思うのです。
膨大なインプットとアウトプットの繰り返しです。
インプット:毎日毎日、時々刻々、両親を始めとした、人間の会話を聞き続けている。これが、言語のインプットになっている。
アウトプット:インプットと同時に、聞いた言葉を真似しようと常に話そうとし続けている。実際は、全く話せていないのに、そんなのお構いなしにガンガン喋りまくる。つまり、アウトプットの量が半端じゃないってことです。
この二つの掛け算が四六時中行われているからだと思うのです。

超当たり前なのですが、そのような気がするのです。
何かを習得しようと思ったら、膨大な量のインプットとアウトプットのどちらも必要なんですよね。
この言語爆発の過程を、大人になって何か新しいことを習得する過程に置き換えて考えてみると、
その習得に向けて、読書で学習する。人に話を聞きに行く。
などなど、インプットの量っていうのはある程度、比較的簡単に確保することができるのですが、
一方でアウトプットはどうだろうか?
インプットと同じくらいできているだろうか?
それは、けっこう難しく、同じくらいには出来ていないのではないか?
と個人的には思うのです。
その理由は、
できていない姿を世に出すっていうことが恥ずかしいから。かっこ悪いと思ってしまうからではないか?
それがためらいを生み出してしまっているのではないか?
と思うのです。

でも、よくよく考えてみたら、新しいことを始めたら、最初はできなくて当たり前。(よくよく考えなくても当たり前ですね笑)
できなくて当たり前なんだから、出来ないことは恥ずかしいことでも、カッコ悪いことでも何でもない。生理現象みたいなものです。
だったら、
ガンガンやった方が良いのではないか?
といいますか、ガンガンやらなかったら身につくものも身に付かないですよね?
子供だって、ガンガン喋ってるじゃないっすか、よくわかんない言葉を。
でも、子供は喋れないのが当たり前っていう社会時全体の共通認識があるから、誰も何とも思わない。むしろ頑張れ!とすら感じてしまう。
2,3歳児に、そもそも恥や外聞という意識はないかもしれませんが…

であるならば、言語爆発期の子供と同じように、
新しいことに、ガンガンチャレンジしている姿って良いよね。
応援したくなるよね。
その成長過程をアウトプットとして世に出していく姿ってかっこいいよね。
そういったパラダイムが堂々とあっても良いのではないか?
そんなことを思うのです。
少なくとも、僕はそのパラダイムを全力で生きて行くのです。
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新しいことを習得するには、日々の膨大なインプットとアウトプットが欠かせない。
言語爆発期の子どもがまさにそうではないか?
言葉のシャワーを浴び、それを真似して、四六時中掃き出し続ける。
大人になるとそれが出来なくなるのはなぜか?
出来ない姿を人に見せるのが恥ずかしい
と思ってしまうからではないか。
でも、新しいことにチャレンジすれば、出来なくて当たり前。
新しいことにチャレンジし、その姿を惜しむことなくアウトプットし続ける姿がかっこいい。
そんなパラダイムがあっても良いのではないか。少なくともその中で生きるのだ。