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令和4年4月13日 今日もクルクル通信1330号
本ブログは、(株)SURGING中田雅之のブログです。
今日もクルクルうねって、胸にぐっとクル気づきを書いていきます。
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電通に勤務していた時に先輩から、「中田は、こういう仕事がしたい!とか、こういうクライアントを担当したい!とか、この部署に異動したい!とか、そういう希望ってないの?」と問われたことがありました。
「いやー、それがあんまりないんですよね。自分が希望することが自分にとって合うのか?本当に良いものか?分からないじゃないですか。
なので、あまり意志や希望ってないんですよね。人に導かれるのが良いって思っているんですよね。」
と回答すると、それを聞いた先輩は、一言、
「お前、変わってるね。」って言いました。それに対して、
「変わってるかもしれませんが、今までもそれで人生良かったんで、これからもそれで良いと思っています。」
と答えました。
「お前、変わってるね。」という、言葉が印象的で、今でもはっきり覚えています。
これが変わっているのか?はよく分かりませんが、当時も今も、この考えは基本的には変わっておらず、
先のことなんて分からない。ってか、自分が想像できることなんて、ちっぽけなんだから、それに縛られてしまうことの方がもったいないのでは?
って思っています。
でも、この発言を今、振り返ってみれば、ちょっと違うな。って思う点が一点あります。
それは、意志や希望を持っていないわけではなく、こうありたい!とか、およそこういう方向に行きたい!という、モノはある。しかし、そこの辿り着くルートや方法が分からない。完全にブラックボックス。
どんな関数f(x)を突っ込めば、ありたい姿に辿り着けるのか。これが、自分では分からないので、人に導かれる形で良いんじゃないか。
【柳に風】でいいんじゃね。って思っているんですよね。
また別の表現で言えば、自分自身ってパチンコ玉みたいなもので、どの釘(=人との出会い)に当たって、どんな方向に飛んで行くのか?分からない。
でも、ありたい姿という「入賞口」に辿り着くという意志だけを持っていれば、どんな釘に、何回当たろうとも、最後にフィーバーできるんじゃね。
なんて思っているんですよね。意志を持たないパチンコ玉とはここが違いますが。
それっぽく言えば、プランド・ハップンスタンス(Planned Happenstance)セオリー(計画的偶発性理論)に近い考えでしょうか。
で、何でこんなことを書いているのか?と言えば、
まさに先月末くらいか、予期せぬ釘に当たりまくって、一か月前にはおよそ想像もできなかった状態に突入しているからです。巻き込まれ事故とも言う!?ww
もちろん、これらは、運・ご縁・タイミングで起こるものですから、感謝しながら、今まで通り、まずは流されていますw
ただ、過去の自分と、流され方に違う点があるとしたら、「ここまでは流されてOKだけど、あそこまで行っちゃうとNG」という臨界点が、ある程度明確になっていることです。海水浴場に浮いている「ブイ」みたいなものがあります。
それを定めてさえいれば、海水浴が楽しめるように、先が分からないことも楽しめます。
皆さんは、意志を持って突き進む派ですか?それとも、流される派ですか?
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【今日のうねり】
柳に風。
人生は流されるで、上手くいく。先のことなんて、自分で考えたって分からないし、チープなものに仕上がるだけなのですから。
でも、どこまで流されたらNGなのか。その臨界点を設けておくこと。これが大切なのだ。
意志を持って流さる。これが大事なのだ。